らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】11 おうの





 

先日坂本龍馬の妻「おりょう」を取り上げました。
おりょうはドラマのせいもあり知名度としては既に全国区ですね。

それでは「おうの」という女性をご存知でしょうか。
一般的には知名度は低いかもしれません。

おりょうより2つ年下のおうのは、長州藩が生んだ幕末の革命児高杉晋作の愛妾です。

出自は不明。下関で芸妓をしていたところ高杉晋作と出会います。この時19歳。
おりょうとほぼ同い年で出会いがあったんですね。
ちなみに高杉晋作は龍馬より4歳年下です。

それからというもの2人は可能な限り常に一緒におり、
晋作が四国などに亡命した際も同行しています。
いつも一緒にいたという部分は龍馬おりょうに極めて似てますね。

このようにお互い似たとこカップルではありましたが、
おりょうとおうのでしたが2人の性格は正反対でした。
おりょうが機転が利いて行動的で勝ち気、悪くいえば頑固で融通がきかない性格だったのに対し、
おうのはのぼ~っとして天然ボケ系のおっとりした性格でした。
今でいえば中村玉緒さん系かな(^_^;)

維新のさきがけとして常に困難にぶち当たっていた晋作は、
おうののおおらかさに癒やされていたのかもしれませんね。

このように数年間つかず離れずで行動を共にしてきた晋作おうのでしたが、
1867年春に晋作は結核により死去します。
龍馬はその7か月後に近江屋にて遭難死します。
ほぼ同時期につれあいを亡くした2人の女性でしたが、その後の人生は大いに異なりました。

おりょうについては既にべた通りです。
おうのは高杉晋作が生前いろいろな手を打っていました。
死期を悟った晋作はおうのに自分の死後は墓守をして過ごすよう遺言をします。
そして晋作は亡くなる間際に藩主から谷姓とそれに基づく録を贈られていますが、
おうのに谷姓を名乗らせました。
 
これはすごいことだと思うんです。
通常藩主から家名と録を頂戴すると跡継ぎがない場合、
養子などを取って家名存続を図るものなのですが、
晋作はおうののためだけに谷姓の存続を図り、それとは別に養子をとることはしませんでした。
つまりおうのを長州藩士の家の者とすることで一定の給付を受け取る公的な存在にし、
生涯生活に困らぬようしたのです。
おうのは晋作死後出家して谷梅処と名乗り、
伊藤博文らが建立した東行庵で晋作の菩提を弔う穏やかで静かな余生を過ごしました。

明治42年67歳にて死去。横須賀でおりょうが亡くなった3年後のことでした。

おうのの墓は晋作の墓を見上げる隅っこにちょこんと建っています。
生前晋作を中心に長州の面々が取り囲むように座り、
おうのは一番下座でちょこんと座っていたのを暗示しているようで、ほのぼのとした感じなんです。

それからもうひとつ、現代の女性もうらやむようなことを高杉晋作はおうのにしているんです。
長崎に行った際、なんと、おうののために英国製のハンドバッグを買ってプレゼントしています。
龍馬おりょうが日本で最初に新婚旅行をしたのなら、
晋作おうのは日本で最初に舶来ブランドものをプレゼントしたカップルというところでしょうか。
プレゼントされたハンドバッグ、おうのは大切にとっておいたんでしょうね。
今は東行庵の東行資料館に飾ってあります(画像参照)。




今回おりょうとおうの2人の女性を取り上げましたが、
どちらがどうのと優劣をつける気は毛頭ありません。
ただ二人のほぼ同い年の女性がそれぞれ同じ頃歴史に残るような連れ合いと出会い、
20代半ばで死に別れ、その後40年それぞれの人生を歩み、同じ頃生涯を閉じる。
その不思議さにとらわれて彼女たちの人生を足早に辿ってみました。