らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】10 おりょう





 

 

先日車で会社に戻ろうとしていたところ、いつも通る道は事故規制していましたので、
仕方なく迂回路を走っていました。
その時自分の動態視力は迂回路にあった料亭の看板に書いてある名前を見逃しませんでした(^_^;)

おりょう。言わずと知れた坂本龍馬の妻。
龍馬死後流れ流れて横浜近辺の料亭で働いていたとは聞いていましたが、
詳しい場所は知りませんでした。
しかしまさか自分の会社からこんなに近いところにあったとは。
横浜駅西口のオフィス街から坂を上って5分くらいのところです。

龍馬死後、おりょうは龍馬の実家の土佐、京都など転々としていましたが、
明治7年神奈川宿の料亭田中家で仲居として働きました。
店に伝わる話によると、おりょうは英語ができ月琴が得意だったため、
主に外国人接待として重宝されていたとのこと。
ただし頑固でつき合いづらい気性だったそうです。
そんなせいか1年あまりで田中家も辞めてしまいます。

しかし短い間とはいえおりょう横浜駅西口に勤める先輩OLだったとは
(お座敷レディの略語でお願いします(^_^;))、驚くやらちょっと嬉しいやらです。
その頃のおりょうと言われる画像があります。当時32歳前後。
今でもこんな感じの顔の人、普通に横浜駅近辺を歩いてそうです。
 



翌明治8年おりょうは西村松兵衛と再婚し横須賀で暮らしました。
年をとるにつれておりょうは酒浸りになり、
よく松兵衛に絡んでは酔いつぶれていたとの逸話が残っています。
66歳で亡くなった時、
夫の松兵衛はおりょうの墓石に「阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻んでやったといいます。
このエピソードを聞いた時は包容力のある夫に巡り会えて、
それなりに平穏で幸せだったのではないかと思っていました。
しかし晩年夫と死別した妹が姉おりょうを頼って同居をはじめたところ、
松兵衛と内縁関係になり、2人はおりょうと別居して暮らしたという事実があるようです。
そうだとすると墓石の話も松兵衛のせめてもの罪滅ぼしだったかもしれません。
いずれにしても平穏で幸せな晩年だったとは言い難いものがあります。

24歳で龍馬と死に別れ66歳に死去するまでの40年あまりは、
ひたすら龍馬の面影を追い続けた人生だったでしょうか。
20歳の頃龍馬と初めて会った時、
名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと龍馬が笑ったという出会いから、
寺田屋おりょうの機転で龍馬の命を救い、やがて結婚し鹿児島の温泉に新婚旅行。
その後も長崎、下関と船で同行。
龍馬と一緒だったわずか数年間の日々は、
晩年のおりょうにとってひときわ輝いて感じられたのかもしれません。

本来の気質も龍馬がいれば、おきゃんでかわいい女として引き出してくれましたが、
他の人間の前では頑固でつき合いづらいという印象。
「龍馬が生きていれば面白いこともあったでしょう」と後日回顧したそうですが、
自らはどうすることもできなかったのか、それともそうならざるを得ない時代だったのか。
いずれにしても龍馬が晩年のおりょうの人生を知ったら寂しく思ったに違いありません。

偶然見つけた田中家を後にする際、
二階の奥座敷の窓からおりょうのもの憂げな月琴の音色が、
ぽつんぽつんと聴こえたような聴こえなかったような、
なんとなくそんな気がしてしまいました。