【人物列伝】8 徳川宗春
「暴れん坊将軍」第9部最終回「天下取りの野望!吉宗VS宗春」と題して
吉宗のライバルとして最終回のチャンバラをしたのが徳川宗春です。
もちろんチャンバラはフィクションですが、ライバルというのはあながち間違いではありません。
倹約と増税により幕府財政の安定を図る徳川吉宗の享保の改革が行われている真っ只中の1730年,
もちろんチャンバラはフィクションですが、ライバルというのはあながち間違いではありません。
倹約と増税により幕府財政の安定を図る徳川吉宗の享保の改革が行われている真っ只中の1730年,
また自身も鼈甲製の唐人笠と金糸で飾られた虎の陣羽織姿であったとのこと。
いわゆる伊達男ってやつです。
いわゆる伊達男ってやつです。
自身の著書「温知政要」で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる。
消費意欲の喚起し経済を活性化しようとしました。
その結果名古屋の街は活気に満ちその繁栄ぶりは
その結果名古屋の街は活気に満ちその繁栄ぶりは
「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われたそうで,
当時の名古屋の人口は10万といわれています。
豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図りました。
農民にとっての重税感は大変なものだったと思われます。
他方宗春率いる尾張藩も長くうまくはいかず、積極財政がたたり財政が赤字に転じ、
農民にとっての重税感は大変なものだったと思われます。
他方宗春率いる尾張藩も長くうまくはいかず、積極財政がたたり財政が赤字に転じ、
将軍吉宗と共謀し、宗春の実権を奪い1738年宗春の藩主時代の命令はすべて無効とされました。
蟄居のまま1769年死去。
宗春の処分は死後も続き墓石に金網が掛けられ罪人の扱いを受け、
蟄居のまま1769年死去。
宗春の処分は死後も続き墓石に金網が掛けられ罪人の扱いを受け、
採られた措置だと思われます。
しかし宗春が生きてる間30年、死後70年、併せて100年以上彼を許さなかった
しかし宗春が生きてる間30年、死後70年、併せて100年以上彼を許さなかった
吉宗とその後継者の執拗な執念みたいなものは一体何だったのでしょうか。
ドラマでは垣間見ることのできない吉宗の一面をみることができます。
宗春の政策はなぜ失敗したのか。
宗春はただ規制緩和と消費意欲の喚起を行うのみで、
ドラマでは垣間見ることのできない吉宗の一面をみることができます。
宗春の政策はなぜ失敗したのか。
宗春はただ規制緩和と消費意欲の喚起を行うのみで、
かかる積極財政による好景気を税収の向上に結びつける事が出来なかったからといわれています。
しかしかかる政策がケインズにより理論化されるのは200年先の話で、
しかしかかる政策がケインズにより理論化されるのは200年先の話で、
できなかったことを責めるのは酷な部分があります。
基本的な発想は時代を先取りしていた。
基本的な発想は時代を先取りしていた。
しかしそれを現実化する理論やサポートする人材は当時皆無だった。
あまりにも現れるのが早すぎた政治家といえるかもしれません。
この記事を読んで、
あまりにも現れるのが早すぎた政治家といえるかもしれません。
この記事を読んで、
以後「暴れん坊将軍」で吉宗と宗春がチャンバラするシーンを見たら
宗春ってそんな人だったんだと思い出していただければ嬉しいですね。