らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】8 徳川宗春

徳川宗春と聞いてご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。

この前「鶏肋」の記事で「暴れん坊将軍」のすい星激突の回を紹介しましたが、
暴れん坊将軍」第9部最終回「天下取りの野望!吉宗VS宗春」と題して
吉宗のライバルとして最終回のチャンバラをしたのが徳川宗春です。
もちろんチャンバラはフィクションですが、ライバルというのはあながち間違いではありません。

倹約と増税により幕府財政の安定を図る徳川吉宗享保の改革が行われている真っ只中の1730年,
徳川宗春尾張徳川家を相続しました。
宗春は吉宗より12歳年下です。
名古屋入府の際の宗春一行は華麗な衣装を纏い、
また自身も鼈甲製の唐人笠と金糸で飾られた虎の陣羽織姿であったとのこと。
いわゆる伊達男ってやつです。
自身の著書「温知政要」で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる。
規制を増やしても違反者を増やすのみである」と述べています。

藩主になると宗春は吉宗の享保の改革による緊縮政策に対抗して,
積極経済政策をもって政治を行いました。
具体的には尾張藩が積極的に金を使い、同時に規制緩和をすることで、
消費意欲の喚起し経済を活性化しようとしました。

その結果名古屋の街は活気に満ちその繁栄ぶりは
「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われたそうで,
 
当時の名古屋の人口は10万といわれています。
同時期のヨーロッパの各都市に比べてもかなりの大都市でその繁栄ぶりが伺えます。

吉宗が増税による財政再建を目指していたって意外でしたか?
吉宗は年貢を強化して五公五民に引き上げ、
豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図りました。
農民にとっての重税感は大変なものだったと思われます。

他方宗春率いる尾張藩も長くうまくはいかず、積極財政がたたり財政が赤字に転じ、
財政悪化により農民商人に上納金を命じたため民衆の人気を失いました。
また将軍家との対立に藩重臣達は不安を募らせ、宗春失脚を画策。
将軍吉宗と共謀し、宗春の実権を奪い1738年宗春の藩主時代の命令はすべて無効とされました。
蟄居のまま1769年死去。
宗春の処分は死後も続き墓石に金網が掛けられ罪人の扱いを受け、
死後75年経って吉宗の曾孫徳川斉荘尾張藩主に就任する際に名誉回復し、金網も撤去されました。
これは罪が消えたというよりも吉宗の子孫が尾張藩を継ぐに体裁が悪いということで
採られた措置だと思われます。

しかし宗春が生きてる間30年、死後70年、併せて100年以上彼を許さなかった
吉宗とその後継者の執拗な執念みたいなものは一体何だったのでしょうか。
ドラマでは垣間見ることのできない吉宗の一面をみることができます。

宗春の政策はなぜ失敗したのか。
宗春はただ規制緩和と消費意欲の喚起を行うのみで、
かかる積極財政による好景気を税収の向上に結びつける事が出来なかったからといわれています。
しかしかかる政策がケインズにより理論化されるのは200年先の話で、
できなかったことを責めるのは酷な部分があります。

基本的な発想は時代を先取りしていた。
しかしそれを現実化する理論やサポートする人材は当時皆無だった。
あまりにも現れるのが早すぎた政治家といえるかもしれません。

この記事を読んで、
以後「暴れん坊将軍」で吉宗と宗春がチャンバラするシーンを見たら
宗春ってそんな人だったんだと思い出していただければ嬉しいですね。