らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】7 ねね(北政所)エピローグ

京都東山阿弥陀ヶ峰に秀吉の墓はあります。
1615年大坂夏の陣による豊臣家の滅亡と共に、徳川家康は秀吉の墓をを破却し、
その参道中央に新日吉神宮を移して墓参の通行を妨げ、社殿は朽ちるままに放置されました。
今の形に整備されたのは徳川の世が終わって明治になってからです。
とすれば二百数十年間秀吉の墓は荒らされたままになっていたことになります。

ちなみに秀吉の遺骸は明治の改修の際偶然発見されました。
遺骸は備前焼の大甕の中に西を向き手を組んで座っていたとのことです。

ねねは徳川によるこの一連の行為を見ていたわけです。苦楽を共にした夫秀吉の墓が破却され、
存在を完全否定される様をどういう気持ちで見ていたのでしょうか。

これも戦国の世の習いと心で飲み込んでいたとしても、やはり楽しい余生を過ごしたとは思えません。
ひたすら秀吉及び亡くなった豊臣家の人々の菩提を弔う毎日だったと思われます。

ただねねの実家の血筋のいくつかは大名として存続しました。
秀吉の手紙やら資料がわりかし豊富に残っているのは
実家の大名家に保管されていたことが大きいようです。

それらの手紙などを見ると
現在に近い気さくでいつも一緒にいる夫婦という印象を受けるものがたくさんあります。
関白就任後もねねが秀吉の食事を自ら作ったり、
また二人で会話するときは尾張弁丸出しだったとか。
ねね「おみゃーさま、なにやっとりゃーすの。とろいことやっとっていかんがね」
秀吉「とろいことなんかやっとらへんて。ちゃんとやっとるがね。」

訳:
ねね「あなた、何してるの。バカなことしちゃダメでしょ。」
秀吉「バカなことなんてしてないよ。きちんとしてるよ。」
ってところでしょうかね(^_^;)
昔の尾張弁は今の尾張名古屋弁とは少々違うようですけど。


ねねが秀吉の浮気を信長に告げ口したエピソードでもわかりますが、
通常格式ある武家の子女ではありえないことですので、
二人はいい意味で高い身分の人間に通常存在する枠組みが取り払われた、
現代にも普通にいるようなフレンドリーな夫婦だったのではないかと思われます。

秀吉とねねは現在京都東山のほど近いところで眠っています。
興味をもたれた方は京都に行かれたとき両方訪ねてみてはいかがでしょうか。
ただし秀吉の墓は石段を五百数十段登った先にあるそうですので(^_^;)翌日の筋肉痛に注意ですね。

ねねにゆかりの高台寺は美しい枝垂れ桜で有名だそうですね。

ねねの辞世の句は残っていませんが、
夫秀吉が亡くなる数か月前に催された醍醐の花見で詠んだ歌が残っており紹介します。

咲けば散り
散れば咲きぬる山桜
いやつぎつぎの
花さかりかな