らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】7 ねね(北政所)


 


アニメ「クレヨンしんちゃん」で
「私のことを呼び捨てにしていいのはパパとママと豊臣秀吉だけなんだからね!」
と、しんちゃんに呼び捨てにされたガールフレンドのねねちゃんが文句を言うシーンを前に見ました。

今回の人物列伝は豊臣秀吉の正妻ねね。
最近のドラマだとおねで表記されることが多いのですが、
ねねの方がかわいらしいのでこちらで呼びます。
ねねについては、様々なドラマなどに取り上げられていることから概略は省きます。

ねねは叔母の嫁ぎ先の養女でしたが、
秀吉とは縁談でなく「野合で結ばれた」、すなわち自由恋愛で結ばれたとの事なので、
身分の高い武士の娘というわけでなく、どちらかというと庶民に近い感じだったのでしょう。
実母は結婚に反対していたそうなので、
武家として縁談によらない「野合」による結婚の形に難色を示していたのかもしれません。

結婚式は「土間に藁を引きその上に薄い敷物を敷いただけのささやかな祝言」でした。
この時秀吉25歳ねね14歳。

12年後、一国一城の主となった秀吉は今まで夫婦2人で様々な苦労してきたのに、
金と地位を得た途端に女漁りを始めます。


さて、ここで問題です。

この時、ねねはどういう行動を取ったでしょうか。

答えは、主君の信長にチクった(告げ口した)です(^_^;)

秀吉が一番されたくないことをあっさりやってのけたわけですから、
間違っても泣き寝入りして、さめざめと泣くというタイプではないですね(汗)

それに対する信長のねねへの返答の手紙が今も残っています。
少し長いですが非常におもしろいので要約して紹介します。
 
 


先日は大層な贈り物をありがとう。

それにしても、そなたは以前会った時よりもずっと美しくなった。

そんな美人の妻を持ちながら秀吉は不足を言うようだが、それは絶対に秀吉が悪い。

あんなハゲネズミにそなたのような美人の妻は二度と見つけられないのだから、
そなたも気を大きく持って、ヤキモキなど妬いてはいけない。

夫を立てるのが女房の役目なのだから、黙って世話をしてやりなさい。 

なおこの手紙は秀吉にも必ず見せるように。
                   
                            信長
 


最後の一文で強烈なオチがついてませんか(^_^;)
この手紙を見せられた秀吉の心中を想像するとちょっと笑えます。
女性的にはスタンディングオベーション的な展開じゃないでしょうか。
男性的には「いや~自分じゃなくて本当によかった」ですね。
その後秀吉が出世するに従い側室も増え、淀の方に秀頼が生まれるなどしましたが、
秀吉もねねをないがしろにすることなく、
側室関係の絡みに関しては常にねねを通して動き、ねねも過不足なく処理していたようです。

ドラマによくある淀の方との確執は、
当時の資料からはフィクションの部分が多いようです。

秀吉死後も20年以上長生きし、江戸幕府3代将軍家光の時代に亡くなりますが、
秀吉と藁敷きのささやかな祝言をあげてから、大坂夏の陣による大坂城落城まで
豊臣家の栄枯盛衰全てを見てきたわけです。

よく淀の方でなく、ねねに実子がいたら、
豊臣家は家康につけこまれて滅亡することはなかったのではという話を聞きます。

諸条件が異なるのでなかなか難しいですが、
結局家康は豊臣家を滅ぼしていたであろうと思います。
豊臣家の存在の大きさゆえに、前田家がまつを人質に送ったように事を収めるのは無理でしょう。
大坂城が落城する形になるかはわかりませんが、
大坂の陣に至るまでの家康の豊臣家に対する難癖ともいえる態度の数々、
京都に潜んでいた豊臣秀頼の8歳の庶子が六条河原で処刑されていることからしても
秀吉の血筋は残すことはなかったと思います。
実母であれば、ねねも戦になれば命はなかった可能性もあります。

しかし、とにもかくにも戦国時代真っ只中のほぼトップにいながら80歳近くまで命長らえ、
戦国の世の有り様の全てを見てきた。
これだけでも相当すごいことです。
そんな人はほんの一握りしか居ないんですから。

蛇足ですが毎年名古屋で催される戦国三英傑行列。
一般公募で選ばれるのですが秀吉のペアは淀の方になっています。
自分はねねでいいと思うんです。
そうすればねね役で30~40代の女性も行列出られますしね。