らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「名人伝」中島敦

 
中島敦は、中国の古典を題材とした作品も多く、
名人伝」は今から二千数百年前の春秋戦国時代を舞台としています。

主人公紀昌は弓の名人となるべく名人飛衛の元を訪れトレーニングを始めます。

そのトレーニングの方法が極めてユニークです。

まず最初の2年は妻が機織りしている下に入り、
機織り機が瞼すれすれに動いてもまばたきしない訓練。
妻が機織りしているということは、紀昌が仕事しないで弓のトレーニングをしているため
家計のために内職の類をしていたからと思われますが、
機織りしてる下から、まばたきしないで仰向けでじっとしている夫の顔と
毎日面と向かっている奥さんの心中察するべきものがあります。

つぎの3年は髪の毛に結んだシラミなど小節足動物をひたすら視る訓練。

シラミが馬のような大きさに見えるようになったのを確認した師匠は、
ここで初めて射術の奥義秘伝を授けますが、基礎訓練を徹底的にした紀昌の上達は極めて早い。
例えていえば、映画「ベストキッド」で窓拭きや塀のペンキ塗りで基礎訓練を積んだダニエル少年が、
空手の技を短期間にマスターしたのと同じでしょうか。

わずか数カ月で師匠飛衛と肩を並べる腕前になりますが、
紀昌はこれで満足せず更なる向上を目指して、西の嶮しい山に住む老師に教えを乞いに出発します。
そこで教わったのが「不射之射」。

感覚的にわかりにくいかもしれませんが、弓を使わずして対象を射る業とでも言いましょうか。
無為自然を標榜する道家老荘思想に影響を受けた考えだといわれていますが、
直接的には道教の影響を受けた発想のような気がします。

九年ほどそこで修行を終えた紀昌からは、負けず嫌いの精悍な表情が消え、
木偶の如き無表情になっていたといいますが、
つまりは世の人が持つ余計な虚勢や野心みたいなものが全く消え去って、
例えて言うなら仏教でいう悟りみたいなもので、仏像のような表情と思えばいいでしょうか。

最後には、紀昌は弓の存在すら忘却してしまうほどの究極の「不射之射」の境地に到達します。
普通に考えると、弓の究極奥義が弓自体の存在を忘れてしまうことというのはわかりにくいかもしれません。

しかし、自分なりに解釈すると、弓の奥義を極めることはすなわち人格の完成を極めることと同義で、
人格の完成という究極目的を成し得た紀昌にとって、その手段媒介たる弓の存在は
無意味なものになっていたということでしょうか。

最後に紀昌が亡くなったとき邯鄲の画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、
工匠は規矩を手にするのを恥じたとのことですが、
彼等も無為自然の境地に達することは到底できないが、せめてその形だけでもを真似て
紀昌を追慕したという気持ちの表れなのではないかと感じました。