【人物列伝】6 老子 前編
老子は今から二千数百年前の春秋戦国時代に、孔子と同時期に存在したと言われる思想家です。
しかし孔子と比べその存在は謎に包まれています。
当時中国は諸子百家といわれるほど様々な思想が競い合っていました。
その中で老子が唱えた思想のエッセンスたる言葉が「無為自然」。
字面から解釈すると「作為がなく自然のままであること」となりますが、
しかし孔子と比べその存在は謎に包まれています。
当時中国は諸子百家といわれるほど様々な思想が競い合っていました。
その中で老子が唱えた思想のエッセンスたる言葉が「無為自然」。
字面から解釈すると「作為がなく自然のままであること」となりますが、
孟子のように問答もなく、ただ言葉だけがあり、
故に道に幾(ちか)し。
居るは善く地、心は善く淵(えん)、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動は善く時。
それただ争わず、故に尤(とが)無し。」
最高の善とは水のようなものである。
水は万物を助け育てながら争わず、誰もが嫌う低き低きへくだる。ゆえに「道」に似ている。
水の位置する所は低い。心は深く静かである。与えるに分けへだてがない。言動に偽りがない。
居るは善く地、心は善く淵(えん)、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動は善く時。
それただ争わず、故に尤(とが)無し。」
最高の善とは水のようなものである。
水は万物を助け育てながら争わず、誰もが嫌う低き低きへくだる。ゆえに「道」に似ている。
水の位置する所は低い。心は深く静かである。与えるに分けへだてがない。言動に偽りがない。
収まるべきに正しく収まる。働きに無理がない。時に従って変転流動して窮(きわ)まることがない。
水のごとく争わぬものだけが自在な能力を得ることができる。
不遜ながら、もう1つ自己流に加えるならば
「水言わざれど下自ずから万物集(つど)う」
水は自分が優れていると言わなくても、この世のありとあらゆるものが自然と水のまわりに集まってくる。
というところでしょうか。
しかしながら老子は詩のごときエッセンスを抽出したものだとすると、
水のごとく争わぬものだけが自在な能力を得ることができる。
不遜ながら、もう1つ自己流に加えるならば
「水言わざれど下自ずから万物集(つど)う」
水は自分が優れていると言わなくても、この世のありとあらゆるものが自然と水のまわりに集まってくる。
というところでしょうか。
しかしながら老子は詩のごときエッセンスを抽出したものだとすると、
その真意を探るのはかなり骨の折れることになります。
司馬遷も史記で「老子の著書の示すところは微妙で識り難い」と言っています。
「無為自然」の命題も捉えようによっては、ニヒリズムの方向に進んでいってしまう可能性すらあります。
自分の好きな水の「詩」からすると、
司馬遷も史記で「老子の著書の示すところは微妙で識り難い」と言っています。
「無為自然」の命題も捉えようによっては、ニヒリズムの方向に進んでいってしまう可能性すらあります。
自分の好きな水の「詩」からすると、
自己の存在を否定するニヒリズム的な解釈はあり得ないのではないかと思います。
なぜなら「水」は自己肯定も自己否定もしない無為に確固と存在しているものだからです。
老子の難しいところは、現状の世界に不満がありそれを変えて良くしていきたいという場面で、
なぜなら「水」は自己肯定も自己否定もしない無為に確固と存在しているものだからです。
老子の難しいところは、現状の世界に不満がありそれを変えて良くしていきたいという場面で、
小賢しい知恵など用いて良くしたいなどと思わず自然に任せよと言い放ってしまうことにあります。
では老子の言わんとすることは一体何か?
これから記すことは、自分が僅かながらの人生経験やら、読書での思索やら、日々の散策やらで
では老子の言わんとすることは一体何か?
これから記すことは、自分が僅かながらの人生経験やら、読書での思索やら、日々の散策やらで
自然に触れて感じたことなどを総合して、
小さい自分の頭で考えたいわゆる1人説ですので、
それを御了承いただいて読んでいただければと思います。
続くです(^_^;)
続くです(^_^;)