らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】3 高杉晋作 前編

今回は高杉晋作を取り上げたいと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、一応略歴を紹介しますと
1839年生~1867年死(享年27)。長州藩士。
当初尊王攘夷の志士として活躍。
奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付け重要な役割を果たした。


幕末維新英雄あまたあれど、
その中で誰か1人と問われれば、自分は高杉晋作を推します。

彼が18歳で松下村塾に入塾して27歳に亡くなるまで10年たらず。
実際世に出て仕事をしたのは5年ほどでしょうか。
その僅かの時間で彼は外国に占領統治されることなく、
長州藩を滅ぼすこともなく見事日本を新しい時代に導きました。

僅かな時間でこれだけ大きな仕事を為したのですから、
さぞかし目論見通りすいすいと新しい時代の流れに乗って、
事が運んだと思いきやとんでもない。

彼の進むところ必ずといっていいほど、大きな障害のみならず小さなトラブルまで降って湧いて、
1つとしてスムーズに進んだものはありません。

歴史は新しいものを生み出すとき、それを担う者に試練を与えるのです。

投獄されたり亡命したりしたことも一度や二度ではなく、
しかも後半生は肺結核を患い病とも闘いながらの活動でした。

しかし彼は無数に降りかかってくる試練を諦めることなく、細心かつ大胆に行動し見事目的を遂げました。
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」
とは彼を評した伊藤博文の言葉です。

彼の行く手に大小様々な困難が降りかかったことについて、
高杉自身の直情径行な性格に原因を求める向きもありますが、自分はそうは思いません。
高杉晋作及び彼の属する長州藩は、日本の先駆けであったのです。
先駆けつまり先頭を突っ走るわけですから、
道なき道を試行錯誤しながら進むわけです。
西洋列強と下関で戦争したときもそうですし、
禁門の変で、会津薩摩を主力とする幕府軍と朝敵つまり天皇に背く者として戦ったときもそうです。
高杉晋作及び長州藩は、
西洋列強と戦争することの不利、幕府に代わる古くて新しい権威として錦の御旗の重要性を、
身をもって学びました。

先駆けとして必然的に試行錯誤を繰り返し、何かにぶつかる度に、
高杉の友人を始めたくさんの長州人が死にました。

先駆けになるとはそういうことなわけで、
苦しくて乗り越えられそうにないような試練の連続です。
決してスマートでかっこいいものではありません。

高杉晋作の素晴らしいところは、どんな窮地に陥っても冷静かつ合理的な判断ができ、
イデオロギーや過去の遺恨などにとらわれない思考の柔軟性にあります。
イデオロギーにこだわる人の思考は得てして硬直的で、
イデオロギーの枠外の人を殺したり見捨てたりすることを平気でしてしまうことがあります。
また遺恨を行動のエネルギー源とする人は、視野が狭く、遺恨と無関係の人々の賛同を得ることは難しい。
高杉晋作は、外国排斥、攘夷といったイデオロギーに縛られず、
常に長州藩及び日本が生き残るにはという視点を見失わず、最終的に開国倒幕を推し進めました。
また禁門の変で多くの友人を殺した薩摩藩、憎さのあまり履いている草履の裏に「薩賊会奸」と書いて
常に踏みつけていたほどですが、遺恨を心の奥に置き、速やかな倒幕のため同盟を結びました。

あと彼の凄いところは、感の良さと決断後の行動の早さです。

どんなに学術的知識が豊富な人でも感が悪く、
決断及びその後の行動が遅い人は、無知蒙昧の人と大差ありません。
そういう人間がリーダーの国はとても不幸な国です。
彼は物事を為すべき「時」というものを、実によく知っていた決断と行動の人でした。

長くなりましたので今回はこれくらいにし、
次回後編で彼を語るエピソードは多くあれど、
その中で一番重要かつ象徴的な「功山寺の挙兵」について述べたいと思います。