らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「俳句の成立と必然性」‐俳句の精神より‐寺田寅彦

「好きなもの イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物」

寺田寅彦作の短歌です。
明治時代の人としてはなかなか洒落っ気のある人ですね。

寺田寅彦夏目漱石の高弟の一人で東大の教授にして物理学者。理化学研究所にも所属していたバリバリの科学者です。

この作品は日本において俳句もしくは短歌といったごく短い定型詩が成立しなぜ盛んになったかを論理的科学的に分析した文章です。

冒頭のこじゃれた短歌から親しみやすい気さくな文章を書く人なのかなと思いきや、科学者らしいきわめて論理的でスキのない文章です。
平たく言うと高校の国語の問題文で出されてもおかしくないとでもいいますか。

「五七また七五調が古来の日本語に何かしら特に適応するような楽律的性質を内蔵しているということをたとえ演繹することは困難でも、眼前の事実から帰納することができればそれで少なくもこの場限りの目的には充分であろうと思われる。」

どうですか?ついていけましたか笑。
ついていけなかった方は自分が頑張って読んで、要はこういうことだろうと思われる事をなんとか書きましたので、参考にしてみてください。


まず筆者は俳句短歌の成立の経緯として日本人特有の自然観があるといいます。
即ち「従来の日本人は自然に同化し、順応しようとして来た」

では日本人固有の自然観の特異性がいかなる形で俳句に現われるかですが、一言でいえばそれは「季題」にあると言います。

すなわち季題は日本人にとっては決して単なる気象学上の術語ではなくて、長い時間をかけて歴史的文化的に形成された精神の活動を圧縮したエッセンスである。
そしてそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文の役目をつとめるものであるとします。

そしてこの魔術がどうして可能になったかですが、日本人がもともと有していた特異な自然観への感受性が日本古来の短い定型詩の存在とその流行によって磨かれてきたことにあるとします。

また日本における五七五の定型についてもその成立が決して偶然的でなく、一定の音楽的拍節に語句を配しつつ語句と語句との間に適当な休止を取る際に自然にできあがった口調から発生したものではないかと推論しています。

「切れ字」の意義についても同様で、決して偶然的人工的なものでもなくきわめて自然で必要なものであるとしています。

以上非常に大雑把にまとめると、短歌俳句というのは人間を自然の一部と捉える日本人の自然観に深く根ざしてその結果「季語」「五七五調定型」「切れ字」などの特徴が必然的にあらわれた。
特に「季語」については歴史的文化的に長年に渡り日本人の想いが塗り重ねられ圧縮されてきたもので、ひとたび短歌俳句に表れるや、「季語」に圧縮されていた様々な内容が想いを塗り重ねてきた日本人の心に呼び覚まされるものである。
俳句の精神といったようなものは俳句のこの形式を離れては存立し難いものと考える。
という趣旨の文章だと思われます。

それでは俳句の精神とは何かですが、それは筆者曰わく次章に続くということで明日記事を掲載することにします(予定です汗)。