らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「幾度目かの最期」久坂葉子

昨日に引き続き久坂葉子さんの「作品」です。
今回紹介する「幾度目かの最期」を書き上げたその日に彼女は自殺しました。

死の本当の直前に書かれたものなので彼女の人生の本質にかかわる核心部分の心情が吐露されているのではないかと思い読んでみました。

文体は敬愛する小母さんへの手紙という形式を採っていますが、読んでいくうちに????
これは小説ではなく申し訳ないのですが、半分酔っ払って電話してきた中年の独身女性のとりとめのない愚痴の羅列のようといいますか…

小説と思って読み始めた自分は少々面食らいました。
私見では小説とは最低限作者による創作がなされなければいけないと思っていますが、果たして「幾度目かの最期」にはそれがあるでしょうか。

女性のプライベートな手紙を盗み見てしまったかのような感覚すらあります。

ずっと読み進めても三人の男性との恋愛模様というか痴話喧嘩みたいなことが延々と書かれていて果たしてこれが今日明日死ぬ人の書く文章の内容なのだろうかという思いで読んでいました。


すると最後に
「私は静かな気持になれました。書いてしまった。すっかり。」
「これは小説ではない。ぜんぶ本当。真実私の心の告白なんです」とありました。

あー、彼女はこの「作品」を書くことで自ら命を絶つ理由の最終確認をしていたのだなとなんとなく合点しました。
彼女はまず死ぬことありきでその理由をああでもないこうでもないと書きながら探していたのではないのでしょうか。
関係した男達に生への一縷の望みを託すも叶わず結局死にいざなわれることになります。


また「これは、私の最後の仕事」と彼女は言っています。
隠そうと思えばいくらでもきれいなことが書けたと思いますよ。
あえてそれをしないで自らの醜いものを引きずり出して世に晒すようなことを書いたのは彼女の物書きとしての最期の責任感なのかもしれません。

しかしこの作品、小説的技巧を駆使しているわけでなく思いのままに書き綴っているだけな感じですが、何か妙な切羽詰まった重苦しい迫力というか圧迫感があります。
まるで腹の中に鉛のかたまりを飲み込んだ重苦しさといいますか。
ひょっとしたらこれは生のエネルギーの残っている者が自ら命を絶とうとするときに最期に吐き出すかたまりみたいなものなのかもしれません。

自殺時久坂さんは二十歳そこそこですが、この文章を読む限り、なにか世間に疲れた中年女性のように感じます。

久坂さんにはもっとゆっくり自分の好きな小説を気の向くままに書かせてあげたかったですね。

迫ってくる電車を横目に見ながら線路に飛び込んだ彼女は「幾度目かの最期」を読んだ限りでは間違いなく淋しく孤独に死んでいったはずです。
一人の二十歳そこそこの女の子としても不憫で仕方ないですね。

もし今の時代に彼女が生まれていたら…と考えるのは野暮なことですが、本当に残念なことです。