【閑話休題】新元号「令和」
先日、平成の次の元号の発表がありました。
新しい元号は「令和(れいわ)」。
自分は「光」とか「永」いう字を予想していたので、
目にした瞬間、こんな漢字も使うんだと、正直驚きました。
予想するにあたっては、頭文字を当てる方が簡単だと考えていました。
すなわち、明治大正昭和平成のイニシャルのものを除く、
そのヒントだけでもMTSHの頭文字が外れるので、
「光(K)」もしく「永(E)」は十分有り得ると思っていたのですが、
「令(R )」は全く予想しませんでしたね。
R の音というのは、今までほとんど使われていなかったのではないでしょうか。
そういう意味では、R 音で始まる元号は今までにない新鮮な響きを感じます。
ただ自分がちょっと??と思ったのは、
令という字は、命令や従えるという意味合いにのみ認知していたのですが、
原典の令月という言葉は、何事をするにもよい月。めでたい月という意味だそうで、
結構長く生きて来ましたけど知らなかった。
へえー、漢字って奥深いんだなという感じです。
しかし、自分が新しい元号を見て思ったのは、
そこで用いられている漢字の出典うんぬん、字の良し悪しということではなく、
自分はこれから、この「令和」という元号のもとで、長らく生きていくんだということ。
皇太子殿下は50代半ばですから、何事も無ければ、恐らく「令和」は20年ぐらいは続くでしょう。
20年後、平均寿命からすれば、自分はまだ生きているはずです。
その時一体自分は何をしているのか。
ちょっと想像がつきません。
なお、元号については合理的でないから、
西暦のみ使用し、廃止すべきだという意見もあります。
現代の合理性至上主義からすると、元号は日本のみで使用されるものであり、
いちいち変換が煩雑で、確かにグローバルな基準とはいえません。
しかしながら、自分は、645年から千数百年間脈々と伝えられてきた
元号の存続を支持する者です。
天皇制賛美主義者というわけではありません。
元号には、西暦では消化しきれない記憶や思いというものが確かにあると感じるんです。
昭和が終わった時の過ぎ逝く記憶、平成が始まった時の新しい思いの記憶。
西暦で言われてピンと来なくても、昭和何年、平成何年で言われると、
フッと記憶が蘇ってくる。そういうものが確かにあります。
合理性という概念は、20世紀から現代まで時代を牽引して人間を進歩させてきました。
特にこの時代は、経済と戦争がおそろしく飛躍した時代ですから、
合理的思考というのは時代の寵児であったと言ってもいいかもしれません。
しかしながら、合理性というものは、
人間を幸せにする万能な概念ではないと感じています。
個性、ひいては地域的特色というものは、ひとつひとつが違っていて、
本来凸凹していて面倒なものです。
合理性はその凸凹を平たくして同じ規格にするものですが、
近現代において、全体を一律化する高速度交通機関の整備、メディアの普及により、
中央と地方がスピーディーに繋がることにより確かに人々は利便を得ました。
しかし、反面、どの地方の駅前に行っても同じチェーン店に、同じ流行、風俗。
地方は独自の特色を失い、急速にその魅力を失いつつあります。そして人間もまた。
合理性は、国際間の競争を勝ち抜く上で確かに重要なものですが、
果てしなく終わりないものでもあり、
それのみを唯一の価値基準とする人々は、おそらく疲れ果ててしまうでしょう。
人間とはその存在自体が不合理なイレギュラーなものだと感じています。
ですから心が引っかかる凸凹したものを、
不合理だからという理由で安易に捨て去ってはいけない。
捨て去ってしまえば、
捨て去ってしまえば、
艪を失った舟のように合理性の波の中を漂流することになってしまう。
日本は来るべき新しい「令和」の時代を異なる価値観を両にらみしながら、
トータルバランスで進むべきだと感じています。
日本は来るべき新しい「令和」の時代を異なる価値観を両にらみしながら、
トータルバランスで進むべきだと感じています。
それは具体的にどういうことだということは、また追々お話しする機会もあるかと思います。