らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】36 孫武









二千数百年前の古代中国に孫武という人物がいました。
かの有名な孫子の兵法を著した人です。
戦争の大兵法家、大軍師といいますと、いかにも好戦的で、
戦いのテクニックに長けた人物を想像しますが、
彼は、戦争とは人民を耐え難い苦しみに陥れるものであり、
人民の疲弊は国家の疲弊、滅亡につながるものゆえ、
決して安易に戦争するべきでなく、
出来得る限り避けなければならないと考えていました。

しかしながら、孫武は、人間の飽くことのなき欲望ゆえ、
戦争を無くすことが極めて困難であることも知っていました。

彼は楽観的な平和主義者ではなく、冷徹な現実主義者であったのです。

そこでやむを得ず戦争しなければならない場合、
損害を最も少なく、合理的に、一挙に決定的な勝利を得るにはどうしたらいいか。
それを記したのが孫子の兵法というわけです。

近時、ビジネス本などで、孫子の兵法を語る書籍がたくさんありますが、
ビジネスの競争で、すきあらば積極果敢に相手を出し抜き、
できるだけ効率よく儲けて、自己の利益を大きくしようという文脈で孫子で語るのは、
その真意とは真逆なものを感じます。

孫武の、実際の戦争時の采配については、
実は、書物に具体的に触れられているものはなく、
司馬遷史記に、王に初めて謁見した際のエピソードが記されているのみです。
しかし、そのエピソードは、孫武の真髄を象徴しているものであり、
ここで紹介いたします。


文章が少々長いのですが(-_-;)
こちらの方は漫画を引用しておられるので、
読むのが面倒くさい方はこちらでどうぞ(^_^;)
https://ameblo.jp/shyusui/entry-12065514067.html




孫武は斉の人で兵法に優れていた。
ある時、呉王に謁見した。

呉王曰く、 あなたの著した兵法書を読んだのだが、
それを実践して見せてはもらえぬだろうか。
そして、それを後宮の女達でやって見せてはくれないだろうか。

孫武が承諾したので、呉王は後宮の美女百八十人を兵として孫武に与えた。
孫武はこれを二隊に分けて、最も王が寵愛する二人の女性を各隊の隊長とし、
全員に武器を持たせて、説明した。

汝は自らの胸と左右の手と背とを知るかと。

婦人曰く、 知っておりますと。

そこで孫武は指示して曰く、

前と言ったら胸を見よ、左と言ったらは左手を見よ、
右と言ったらは右手を見よ、後と言ったら背中を見よ、
と。

婦人曰く、 わかりましたと。

一連の動き方を確認させた孫武は、
違反した場合に刑罰に処せられることを告知し、命令を行き渡らせた。

一回目、右を向くように鼓を鳴らして命令したが、
美女達は笑って命令に従わない。

そこで孫武曰く、 指示が明らかでなく、命令が行き届かぬのは将の罪である。

そして再び動き方の説明をした。
二回目、左を向くように鼓を鳴らして命令したが、やはり美女達は笑うだけで動かない。

孫武曰く、 指示が明らかではなく、命令が行き届かぬのは将の罪である。
だが、既に指示が明らかであるのに、
命令の通りにならぬのは従うべき者達の罪である。

そして隊長として任命していた二人の美姫の処刑を命じた。

この様子を台上から見ていた呉王は、驚いて言った。
将軍が素晴らしい軍師であることはわかった。
どうか二人を斬らないで欲しい。
あの者達がいなければ私は寝食すらままならないのだ、と。

孫武曰く、 私は既に君命を受けて、軍に将として在るのです。
将が軍に在る時においては、君命といえども聞けぬこともあるのです、と。
呉王の懇願を拒否した孫武は、二人の美姫を処刑し、その旨を皆に知らしめた。

そして新たな隊長を選び、再び鼓を用いて命令を下した。
すると美女達は規律を守って整然として動き、
誰一人として私語を発するものは無かった。

孫武は呉王に云った。
兵は既に整いました。
王におかれましては台上より下って実際に確かめて頂きたいと思います。
王が望むとあれば水火に赴くといえども恐れることはないでしょう、と。

呉王曰く、 将軍よ、役目を解くから宿舎に帰って休むがよい。
吾は降りて観る気にならぬ。

孫武曰く、 王よ、いたずらに言ばかり好みて、
その実を用いることができぬのでは、何も成せるものではありません。

ここに至って、呉王は孫武の賢なるを悟り、
正式に将軍として用いることにした。
孫武を将軍とした呉はその後、その名を天下に轟かすに至ったが、
これは孫武に因るところが大きいと言われている。




皆さんはこの話を聞いてどう思われたでしょうか。

なんと有能な素晴らしい人物と思った人は、意外に少ないのではないでしょうか。           
ひょっとしたら、規律に杓子定規で融通が利かない、
情が薄い人物と思われた人が多いかもしれません。

日本人は情に厚い人々だといわれます。
情に厚いとは、思いやりがあると言い換えてもいいのですが、
情というものは、場合によっては、
人を殺すこともあるということを覚えておかれた方がよいと思います。

第二次大戦時、
今のミャンマーとインドの国境のインパール作戦で投入された日本軍9万のうち、生き残った者1万余り、
日本軍の死骸が転がっていた道が、白骨街道と呼ばれるほど大敗を喫したこの作戦。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
作戦立案の当初から物資の補給に問題ありと、
軍部内でも難色を示されていたにもかかわらず、
その作戦が強行されたのは、
作戦を立案した人物が、決定権を有する者の後輩にあたり、
先輩の情から、その作戦を遂行させてやりたいとしたことが一因だとも言われます。

そして、1944年当時、太平洋戦争の戦局は思わしくなく、
何とかしてこれを起死回生の 一撃にできたらという日本軍全体に蔓延していた希望観測的なムード。
これが無理な作戦の実行を決定的にしたと自分は感じます。


孫子は、戦争における過度な情や安易なムードというものを嫌い、
徹底的に、対象を数値化して検証し、負ける確率を限りなく排除していきました。
そういった意味では、孫子は、理系人間だったと言えるかもしれません。  

孫武は稀代の大軍師ですが、戦争好きではありません。
戦争の本質を見抜き、一旦戦争が始まれば、
戦争が全てを覆い尽くす炎のような恐ろしい力を持っていることを知り、
それをできる限り封じ込めコントロールしようと努めた思想家です。


しかし、現代の日本人が、孫子のような人物を用いることができるかと問われれば、
それは甚だ疑問と言わざるを得ません。

それは日本人の情の深さたるゆえんなのですが、
情は公正あってこそはじめて活きるものであり、そうでない情は単なる依怙贔屓ともいえます。

同じことをしても、ある人は罰せられ、ある人は罰せられない。
もしくは、ある人は報酬を得て、ある人は得られない。
こういうことが続けば、人はそういう評価をした人間の言動を信用しなくなり、離れていくでしょう。
孫子はそれを恐れ、戒めたのです。
王の愛姫であろうが、法に反すれば、一兵卒と同じように罰せられる。
そのような公正さがあってこそ、
他の者も納得し、大勢の人間を動かすことができる。

現代の日本も、様々な人々が集い、外国人の方も増える一方ですが、
より多くのさまざまな人々の知恵や力を糾合するには、
情すなわち、思いやりだけでは足りないものがある。
それを知るべきでないかと感じます。





安田靫彦作「孫子弥勒姫兵」




GWは、孫子を体現した日本史上の人物というような記事を書いてみたいと思っています。
誰だと思われますか?お楽しみに(^^)

なお、記事で述べた太平洋戦争のインパール作戦について興味のある方は、
こちらのドキュメンタリーを。
https://youtu.be/SkQr5V_j6EU
かなり硬派ですが、見る価値大いにありです。