らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】4  孫ピン 中編

続きです。

孫ピンが魏から脱出し、故郷斉に帰り将軍田忌の客となりました。
当時は食客といって、有力者が個人的に有能な人物を雇うことがよく行われていたのです。

その食客の頃孫ピンの合理的な思考を象徴するエピソードがあります。

ある時斉王を初めとする有力者が、馬三組ずつ出して勝負する競馬を催しました。
田忌は勝ったり負けたりを繰り返していましたが、
孫ピンは彼に必勝の策を授けます。

三組の馬には強中弱がある。
相手が強を出したら弱を出す。中を出したら強を出す。弱を出したら中を出す。
そうすれば最初の弱は負けるかもしれないが、
続く強、中が勝利することにより2勝1敗で最終的に勝利するというものです。

なんだ、当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、
この計略が成功するには2つの前提が必要になります。

まず自分の馬と相手の馬の実力の分析。
どれくらい強いかという詳細で継続的なデータも必要になるでしょう。
「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」有名な孫子の一説の通りです。

あとこれは賭競馬の遊びですのでそれほどではないかもしれませんが、
三戦で初戦を計算通り負けるというのは、実はかなり度胸胆力が要ることなのです。

一敗した段階で全敗の可能性すらあり、その恐怖に耐え計算通り負けることができるか。
その恐怖に耐えられなければ強には強、中には中、弱には弱をぶつけて、
局勝ったり負けたりを繰り返し確実な勝利をモノにすることはできないでしょう。

卑近な例で適当でないかもしれませんが、孫ピンの計略を冷静に実行できるのは、
プロ野球の監督でいえば落合監督と野村監督でしょう。
全部勝ちにいって結局勝ったり負けたりを繰り返すのが長嶋監督、星野監督といったところでしょうか。

孫ピンの計略を見事実行し、賭競馬に勝利した田忌は、
王に孫ピンを推挙し軍師(作戦参謀)になります。

それから間もなく、ホウ涓率いる魏が趙を攻撃し趙の都を包囲。
趙は孫ピンのいる斉に首都救援を求め、斉王は田忌と孫ピンを援軍として派遣。
いよいよホウ涓と孫ピンの直接対決になります。
自分の顔の入れ墨を見るたび、足がなく日常生活で不便を感じるたびに
ホウ涓の仕打ちを思い出したかもしれません。

今回趙に首都救援を要請されているのですから、
斉の援軍は趙の首都に向かうと考えるのが通常でしょう。
実際将軍田忌もそのように動こうとしました。

しかし孫ピンは田忌に説きます。

我々の目的は趙の首都救援でありますが、趙の首都で戦うのは上策ではありません。
調べたところによると、ホウ涓率いる魏軍の精強部隊はほとんど趙の首都侵攻に参加しており、
そこで戦えば混戦となり勝敗は不確定な状況になります。

他方調べによると、精強部隊は趙に出払っているため、
魏本国には弱小老兵が残っているだけのほぼ空き家の状態です。

我が斉軍が魏の首都を衝けば、
趙の首都を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き引き返し、
自国の首都防衛に向かうでしょう。

そうすれば今回の援軍の主目的たる趙の首都救援は、
一兵も損なうことなく達成することができます。
更に強行軍で帰国してきた魏の主力軍は、精鋭といえど疲労困憊しているでしょうから、
それを待ち受けて戦えば労なく討ち果たすことができるでしょう。


ちょっと難しいですが、おわかりになったでしょうか。
要は敵の強い部分を避け、弱い部分を衝くことにより、
最小限の労力で目的を達成する思考で、
囲魏救趙(いぎきゅうちょう)魏を囲んで趙を救うという有名な戦術です。
この戦術は現代でも多用され、毛沢東などは得意としていたようです。

果たして孫ピンの言った通りになり、
強行軍で疲れ果てたホウ涓率いる魏軍は、準備万端で待ち受けていた孫ピンの斉軍に大敗しました。

しかし孫ピンはホウ涓を深追いすることはしませんでした。

孫ピンが受けた仕打ちからすれば、
この機会に追いつめて決着をつけたいと思うのが普通でしょうけれども、
趙の首都救援という主目的は既に達成しており無理をすることはないと判断したのと、
深追いすることで不確定要素が増し、確実に勝利を得られないと判断したのだと思います。

二千数百年前に、このような合理的思考ができる人間が存在したというのは、本当に驚きです。

長くなりましたので、
孫ピンがホウ涓と最終的に決着をつける馬陵の戦いについては後日投稿します。