らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「枯野抄」芥川龍之介

 
 
松尾芭蕉は1694年(元禄7)年10月12日大坂南御堂門前の旅舎にて
主立った門人達に看取られながら死去しました。亨年51歳。

この物語は、芭蕉のまさに臨終に際して
高弟達(いわゆる蕉門十哲)の様々な心の内を描いた作品です。

師と弟子達をテーマにした作品といえば、
真っ先に思い浮かぶのがレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」。

エスが「この中に私を裏切ろうとしている者がいる」の言葉に、
様々な思惑を抱く弟子達の表情が精緻に描き分けられ、
絵画史上の傑作といわれています。

芥川龍之介「枯野抄」も「最後の晩餐」に劣らぬものがあります。
芭蕉の高弟達のそれぞれの性格、位置関係に応じて書き分けられた
人間の内奥までえぐり出した心理描写は、まさに鋭いと言わざるを得ません。

ずっと病床で付き添っていた医師木節が、
芭蕉の臨終を悟り「(末期の)水を」と言った瞬間、
芭蕉の床を囲んでいた一同は芭蕉の死を現実的なものと認識するに至ります。

順番に芭蕉に末期の水をとるに際して高弟達の様々な思いが交錯します。

まず「生」の享楽家たる故に、そこに「死」象徴たるやせ衰えた師匠の姿に嫌悪を感じる其角。

師匠を十分に看病したという満足と、
その満足にひたることへの後悔とが交錯した心持ちを感じる
小心の去来。

師匠が死ぬことより、師匠を失う自分たちのこと師匠の死による影響や違いを考える支考。

師匠の次に死ぬのは自分ではないかという恐怖を感じる惟然坊。

限りない悲しみと限りない安らかな心もち、
それは芭蕉の人格的圧力屈していた自己の自由な精神が
解放された喜び、を感じる丈艸。

それぞれ様々な思いがありますが、どれも全てを露わにするというわけでなく、
時おり顔をのぞかせる良心との間で微妙に揺れ動いています。

このように順々に末期の水をとっている途中で、
座敷の片すみから一同に不気味な笑い声のようなものが聞えてきます。
一同の心の底を見透かして嘲笑するように。

このような高弟達の様々な思惑と対照的に、
死に臨む師芭蕉は一貫して静かな孤高の存在として描かれています。

ところでこの小説の題名である「枯野抄」。
「枯野」はおそらく

旅に病むで夢は枯野をかけめぐる

という芭蕉辞世の句から取ったものだと最初推測しましたが、
「抄」は何だろうと思っていました。

「抄」とは原本の一部、本文の抜き書きという意味ですが、
小説を読んでいて、世間一般には「悲歎かぎりなき」門弟たちに囲まれ、
この世を去ったと思われていた芭蕉でさえ、
実際には自分自身の事しか考えられない人間の「枯野」の中で、野ざらしになって死んだ。
ましてや、他の人間の死に関してならなおさらだろうということで、
世間一般の抜き書き、つまり縮図という意味で「抄」としたのではないかと思いました。

小説を読む際、題名は内容を一言で象徴するものなので、
読むに際してどうしてこの題名をつけたか考えると、
なかなか面白いことを発見することがあります。

それにしてもこの「枯野抄」、他の芥川龍之介の作品同様、
一見シンプルな印象にもかかわらず細部まで綿密かつ計算的に描写されており、
読んだはなから映像が頭に浮かぶような不思議な感覚があります。
ただ「枯野抄」に限っていえば、鋭すぎて少々シニカル(皮肉的)に感じないではありません。